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本文はここから、映画の背景

ふみ子のモデル粟津キヨさん

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晩年のキヨさん
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幼少期・父に抱かれて
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昭和16年
斉藤百合さん(前列中)
キヨさん(後列右)
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昭和18年
東京女子大学入学
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点字の本を読むキヨさん
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昭和22年
東京女子大学研究科卒業
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東京女子大学 歴史ある本館
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高田盲学校・教員時代
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昭和28年・結婚
はじめに・・・
映画「ふみ子の海」は、新潟県の高田盲学校で教鞭をとり盲女性自立の先駆者となった粟津キヨさんの体験をもとにした、児童文学者・市川信夫先生の同名小説より、主にその少女期を描くものです。
もとより、原作に描かれている「ふみ子」は、粟津キヨさんそのままではありません。市川先生が、粟津さんから直々に聞き書きした様々な体験と、更には市川先生自身が盲学校の教師として盲児たちと過ごす日々のなかであたためてきたイメージを重ねて生まれたものです。原作のなかにも、そして映画のなかでも多くの盲女性の生き方が綴られていますが、こうした女性たちの象徴として私たちの「ふみ子」が生まれたことを知っていただければ幸いです。
粟津(旧姓・金井)キヨさんは、1919(大正8)年、信越国境の豪雪地帯、新潟県東頚城郡牧村に生まれました。
母乳にかわるミルク等がなかった当時の日本では、栄養不良により失明してしまう小児が少なくありませんでした。キヨさんもまた、母親から殆ど母乳がもらえなかったため、角膜に潰瘍ができ、遂には4歳という幼さで失明してしまいます。
しかし、キヨさんのことを知った盲学校の先生が峠を越えてまで就学の勧誘に足を運んでくれたことがきっかけとなり、9歳で私立高田盲学校に入学します。金井の家は八反あまりを耕作する小作農家で、決して裕福な暮らしとは言えませんでした。しかも12人もの大家族だったので、盲学校へ食費として出す1日一升、月三斗の米はとても貴重で、もし盲学校の先生の度重なる家庭訪問がなかったら、キヨさんも学校へは出してもらえなかったかもしれません。大工をしていた父と母、そして兄が、将来キヨさんが一人で生きてゆけるためにと懸命に働き、キヨさんを8年間学校へ出してくれました。
学生時代のキヨさんは、夢見る文学少女で、当時日本でも珍しい『柏崎点字図書館』から本を借りて読書に夢中になっていました。おとなしく目立たない生徒でしたが、勉強はよくできたそうです。
17歳となったキヨさんは、按摩・針・灸の資格を得ましたが、村に帰って開業するまでの自信も、温泉旅館で按摩をする勇気もありませんでした。しかし、彼女の人生は、卒業間際に全盲の教師から借りた「点字倶楽部」に触れたことで大きな転機を迎えます。その誌上で、盲女性の先駆者そして日本のヘレン・ケラーと呼ばれた斉藤百合さんが「盲女子高等学園」の設立を訴え、入学を呼びかけていたのです。学力からみても経費の負担を考えても到底叶えられる望みではなかったのですが、キヨさんはその思いを手紙に綴り、斉藤百合さんに送ったのです。
キヨさんの思いを知った家族にとって、これまでの2倍もの送金が必要な進学は思いも寄らないことでした。しかし、娘の願いを叶えさせてやりたいと思う母の懸命な訴えで、キヨさんはもう暫くの間、学資の面倒をみてもらえることになりました。
1937(昭和12)年、キヨさんは盲女子高等学園へ入学するため夜汽車で単身上京します。その年は奇しくもヘレン・ケラー女史の第1回目の来日の年でしたが、キヨさんが上京したのは、ちょうどその歓迎会が終わった後でした。そして更に、盲女子高等学園の開校も見送りと決まったばかりの時でもありました。キヨさんはそのまま斉藤百合さんの家に寄宿し、盲女子高等学園の前身となる「陽光会ホーム」の最初の生徒となります。
それから9年余り、キヨさんは斉藤百合さんの薫陶を受け、人間として女性として生きる道を学びました。キヨさんは陽光会ホームで暮らしたなかで、点字製版や印刷の仕事をはじめ、家事、編み物など一通りの生活技術を身につけることができました。しかし、彼女が得たことで何より大きかったのは、目の見えない女性として社会に対応していく心構えと、人間としての誇りをもって生きていく魂を育てられたこと、そしてキリスト教の信仰を得たことでした。「私よりもっと不幸な盲女子のために百合先生のあとをついて行くのが私の使命」と、いつからかキヨさんは考えるようになっていました。
斉藤百合さんは「陽光会」の学園が形をなさぬなら、「ホーム」から盲女子を自分と同じように専門学校に通学させたいと考えていました。当時の女子の入学できる最上級の学校は女子高等師範学校、東京女子大学、日本女子大学校、津田英語塾に代表される少数の専門学校でしたが、そこでは容易に障害者の入学を認めていませんでした。金井キヨをなんとか専門学校へ通わせたいと願った百合さんでしたが、ホームに一番近い日本女子大の受付けでは「おめくらさんの世話はできません」と帰され、大妻女子専門学校では「裁縫ができなくては問題になりません」などと断られるばかりでした。願書さえ貰うことができなかったのですが、根気強く知人の紹介をたどって受け入れ校を探し続けました。その結果、百合さんの母校である憧れの東京女子大学の元学長で、「陽光会」の後援会長の安井てつさんより「あなたが本当に盲女性のために働く気があるなら、一生懸命勉強してこの学校に入りなさい」と、ありがたい言葉をもらうことができたのです。
それから3年間、キヨさんは陽光会で働きながらYWCAの駿河台女学院の夜学に通い、先輩らの個人指導を受け続けました。
1943 (昭和18)年、24歳のキヨさんは、努力の末、高等学部特別生として東京女子大学に入学を認められました。女学校卒業資格を持たない彼女は海外からの留学生と同じ扱いで、授業料は有志の拠金による奨学金で賄われました。また、キヨさんの入学が朝日新聞で報じられ、見知らぬ人々からの激励にも支えられました。
視覚に障害がありながら熱心に就学を志したキヨさんの夢は、東京女子大学のキャンパスで大きく前進しました。しかし、ようやく手に入れたキヨさんの学生生活は、戦争のため1年半で中断してしまいます。食糧難、東京大空襲、学徒動員という暗い時代ではありましたが、彼女はこの時を素晴らしいクラスメイトたちと過ごします。
入学式の礼拝で賛美歌の本を落としたキヨさんに「拾ってください」と言われた同じ新入生は、「なんて横着なの、自分で拾ったら」と隣の席をにらんだそうです。しかし、そこに黒眼鏡をかけてしょう然と立っているキヨさんの姿に胸をつかれ、深い自責の念にかられたといいます。
敗戦後、彼女は復学し、昭和22年研究科を卒業しました。
1951(昭和26)年、キヨさんは敗戦で焼け野原となった東京を後にし、県立となった高田盲学校の教師として郷里に戻ります。最も力を入れたのは、盲目の上にさらに知的障害の二重障害をもつ子供たちの教育でした。独り立ちは不可能と考えられていたこの子らに、三療(按摩・鍼・灸)の資格は無理でも、せめて按摩の資格だけでもとらせたいと願ってのことでした。
そんな中、1953(昭和28)年、太平洋戦争の中国戦線での傷痍軍人であった粟津清之さんと結婚。斉藤百合さんが死の床で「金井さんは結婚してきっとお母さんになってよ。盲女性も家庭を持って自立しなければ駄目」と遺した言葉をキヨさんは忘れていませんでした。やがて粟津家は2人の女の子に恵まれました。
そして、キヨさんは家庭と仕事を両立させ、成長した子供たちの協力も得て、盲女性の解放と自立のための活動に68年の人生を費やしました。
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----- 参考資料 -----
「ふみ子の海」市川信夫著 / 理論社刊
「光に向って咲け -斎藤百合の生涯-」(左画像)
 粟津キヨ著 / 岩波新書刊


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